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見すごされている、もしくは言ってはいけない2、3のこと

「がんばって」はなぜ言ってはいけない?――真面目ひとすじのQたろ~がホリエモンに生き方を学ぶ

生真面目な人ほど心を病むと言われています。

なぜでしょうか?

筆者(Qたろ~)もそんな生真面目な人間の一人。三十年このかた、真面目ひとすじで生きてきました。

おかげで、いいこともありましたが…

じっさいはまじめで損したな、ということばかり。

 

職場では先輩に「まじめ一本やりじゃダメなんだよ」とか「お前は勉強ばっかやってきたから――」とか言われちゃったり。

 

「いいかげん」は「良い加減」とか、頭ではわかってるつもりだけどやっぱりいい加減になれなかったり…。

 
そんな私があるとき本屋さんで手にとった本にこんなことが書かれていました。

 

まじめで几帳面な人ほどうつ病になりやすい

 

心療内科の先生が書いた本がベストセラーになり、漫画化されたものです。

 

表紙の一文にドキッとしつつも手にとって漫画をパラパラと見たのです。

 

まじめな人ほど病みやすい

 

それ以来、このことは私の頭のなかのどこかに「警句」のように記憶されました。

 

《もくじ》

 

 なぜ真面目な人が病むのか

真面目ってナニ?

ところで真面目、まじめと日常なにげなく使いますが、そもそも「真面目」っていったい何なのでしょうか?

 

字ヅラを見てもよくわかりません。

 

「真の面目(めんもく)」?

 

意味不明です。

 

「まじめ」をなんとなくわかってはいるけれども、いざ説明するとなると困ります。

 

じゃあ、ぎゃくに何がまじめでなにが不真面目なのか?と考えてみます。これはもうカンタンに具体例が思い浮かびます。

 

・先生の言うことをきかない⇒ 不真面目

・先生のいうことをきく⇒ まじめ

 

・校則をまもる⇒ まじめ

・校則を破る ⇒不まじめ

 

・勉強する ⇒まじめ

・勉強しない⇒不まじめ

 

なぜか子どもの世界の例ばかりになってきてしまいました(が、それも理由がありそうです。)

 

「まじめ」の例ですべてに共通していることがあり、また反対に「不まじめ」な場合についてもやはり共通項があります。

 

なんでしょうか?

 

・・・

 

それは、「やりたくてやっているか」どうか、ということです。

 

筆者が高3のときにこんなことがありました。後ろの席に座っているのはコウジくんという男の子です。

 

スポーツは割と得意、勉強の成績はさほどです。友人は割と多く、顔はまあまあカッコよく、おしゃれに気を使いいい香りもし、性格も別に悪くない。

 

髪は茶色にしていました。

 

学校のルールとしては茶髪は禁止です。ある日ホームルームで先生に聞かれました。「お前髪の色ちょっと赤いんじゃないか?」でも彼は「いえ、地毛です」の一点ばり。とうとう卒業まで茶色で通しました。

 

昔のような強硬手段をとらなかった学校側も勇気がいったと思いますが、私は「よくもあんな見えすいた嘘が言えたものだな」と思いました。そして「なんであんなに堂々と禁止されている茶髪ができるんだろう?」と不思議でした。

 

さて、ここで事実はこうです

 

・茶髪は校則で禁止されていた

 (茶髪にする人はいたが、圧倒的に少数派だった)

 

・後ろに座っていたコウジ君・・・茶髪にしたい、そしてカッコつけたい、あそびたい、そしてモテたいという自分の思いを優先させた。

 

・私・・・気が小さいのでルールを優先させた。(ほんとうはモテたかった)

 

 ちなみに当時、茶色がかっこいいなぁ…とは思っていましたし、(じつは)金髪にしてみたいと今でも思ってはいますが一度もやったことはありません。気が小さいうえに、家族に反対されると行動に移す気も失せてしまいます。

 

父の死に感謝?

 ところで家族が亡くなったことに「感謝している」と言った人がいます。

 

哲学者のサルトルです。

ジャン=ポール・サルトル

Jean Paul Sartre (kop) | Nationaal Archief

 

 

彼は、幼いころに父親を亡くし父の顔を記憶していませんでした。彼はのちにそのことを「感謝している」と語っています。

 

もし父が生きていたら、きっと私の人生を邪魔してきただろう

 

それが理由です。

 

サルトルがまじめな性格だったかどうかは知りません。ですが私は時おりこのエピソードを思い出します。

 

サルトルの父はエリートで海軍将校でしたが、彼が1歳のときに病気で亡くなったそうです。

 

哲学者らしい冗談(ブラックジョーク)ともとれますが、冗談の中にはつねにいくらかの真実が含まれる、とも申します。

 

ほんとうは父親になにを言われようが、自分の意志を通せばいいのですがそれができれば苦労はしないというもの。

 

筆者も父親からたくさんいろんなことを言われて人生の選択をかえてきたのでサルトルのいうことが身にしみるのです。

 

 「がんばって」がいけない理由

真面目に生きる理由は人それぞれだと思いますが、Qたろ~と同じような理由でそうしている人もきっといるんだろうなあ~・・・なんて想像します。

 

で、話を戻しますが真面目に生きれば生きるほど、私たちは自由に生きることができない、ということになります。

 

真面目であるということは、社会の都合、親の都合、家族の都合といった「他人の都合」で生きることでもあるからです。

 

「こうあるべきだ」「学生はこうあるべき」「学生らしい髪形を」

 

「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」

「大人になったら真面目に働く」

「浮気しない」

「堅実に生きる」

「貯金して老後に備える」

「保険には入っておいた方がよい」

「ギャンブルをする男はサイアク」

 

なぜか「かくあるべき」というか、常識にしばられて生きてしまいます。(そのくせ「常識」というものに心の奥底では強い反抗心をもっていたりします)

 

ほんとうはもっと別な生き方がしたかったのに。

 

髪を金髪にしたかったのに

 

ほんとうは、もっと遊びたかったのに

 

大学なんか別に行きたくなかったのに

 

会社員なんかしたくなかったのに

 

公務員なんてべつにそれほどなりたくなかったのに

 

ほんとは早く帰りたいのに

 

やりたくなかったのに

 

ほんとうは忙しくて目がまわりそうなのに…

 

――でも、つい頑張っちゃう。

 

ヘタをするとトイレに行ったり食事をしたり、眠ったり…といった生理的な要求すら我慢してしまいます。

 

嫌でもやってしまう、またはやりたいのに我慢する。

ここに問題があります。

 

それで問題がなければいいのです。いえ、じっさい問題はないのです。自分が我慢しさえすればいい、いやなことを我慢してやるのが人生だ、それがエラいんだとすら思っています。だから問題だとすら思いません。(私はそう思って何十年も生きてきました)

 

当たり前だと思ってますし、疑問も持ちません。

 

ただ、ほかの人が思ったように生きているのが不思議でなりません。そしてなぜか自分だけはルール通りに、レール通りに生きていこうとします。

 

ですが。

 

人間そんなに単純な存在ではありません。

 

嫌なことを平気で続けられるっていう人もいるのかもしれません。

ですがそんな人ばかりでもありません。

たとえば、

 

嫌なことをやり過ぎてきたせいか、少し忙しかったりプレッシャーがかかったりするとめまいがするようになった

 

会社に出勤しようとすると、頭が苦しくなる

夜になると吐き気がしてきて光や音がつらい。

 

人によってはこんな反応が出てくることもあります

 

こう聞くと一見して弱い人間のようです。

 

でも実際は逆です。

 

意志の力でなんとかしようと頑張っています。「がんばればなんとかなる!」――そう考えています(これが悲劇のはじまりです)。ふつうなら3日で投げ出すところを、2~3年がんばった後にやっと「・・・やっぱりムリだ」と悟ります。そこで「辞めます」とか言って「投げ出すのか?」…とか言われたり…。(われながらかわいそう)

 

ある意味ではとても辛抱強いのです。(本人を含め、誰もそのことに気づいてはいませんが)

病んでいるひとに「がんばって」と言ってはいけないというのはそういうことなのでしょう。

 

じっさいは本人は3年前から耐えているのですが、普通の人には3日前から耐えている問題だとしか思えないので悪気なく「がんばれ」と言ってしまうのでしょう。

 

ここは本人がいつから問題を抱えていたか慎重に見きわめる必要があります。

qtaro-kujo.hatenablog.com

 

フェイスブック創業者が成しえなかったこと

 人にはそれぞれ個性があり、たとえば食事ひとつとっても同じご飯を食べて「固い」という人もいれば「ちょうどいい」という人がいます。同じようにデスクワークがきらいな人もいれば人と話すのがきらいな人もいる。

 

文字を書いたり読んだりするのがまるっきりわからない、という人もいるし逆に読み書きは完璧だけれども完全に口べた、という人もいる

 

 

そんなわけですので、他人同士では能力のちがい・感じ方の違いがあるのは当たりまえです。

 

それを「みんなやっているから自分もできるはず」「みんなと同じことをできないヤツはダメなヤツ」――というふうに考えてしまうのが不幸のはじまりです。

 

でもじっさいには世の中ではそのように教えられることが多いようです。ヘタをすると、子どもにまでそう教えてしまいます。

 

運よく常識にしたがって生きることができ、「勝ち組」にでもなれれば安心かもしれません。でも実際にはすべて思い通りに行くということはなかなかありません。

 

そうなるとどこまでいっても自分を認められない、ということになってしまいます。

 

 

もうひとつの問題は、先ほど申しましたようにからだにいろいろな反応が出てくるということです。

 

嫌なことを続けていると、からだがちゃんと反応を示します。「頭が痛い」「めまいがする」「胸が痛い」「どうきがする・ドキドキする」

 

専門家によって判断がわかれるところかもしれませんが、あるお医者さんに言わせればこういった症状は病気ではありません。

 

私も心療内科を受診してみたことがありますけれども、「病気というよりも正常な反応なんだ」と言われました。大学病院の先生なので専門性はかなりある人だと思います。

 

「頭痛」も「下痢」も正常な反応なのです。そういう反応が出るまでがんばるということが異常なだけなのです。

 

だから、私のように気の弱い人は要注意です。

 

親が「もう少しがんばれ」といったから

 

といってがんばってはいけません。親も他人です。他人にあなたの苦しみは分かりません。

 

逆にあなたは親が何で苦しんでいるか、どれだけつらいかわかりますか?自分は親のことは分からないが、親は自分のことをすっかり理解していて適切な判断が下せる、そう考えていますか?

 

確かに自分の親というのは偉大に見えます。ですが、親は子どもの気持ちや置かれた状況をすべてわかっているでしょうか。もしそうではないとして、常に正しい助言ができるでしょうか。

 

 

そして他人(親)の判断にしたがって人生を選んでうまくいかないとき、誰かを責めてみてもなにか起きるわけではありません。親や、世間を憎んだところで仕事や恋愛がうまくいくことはありません。

 

無力感が増すだけです。

 
父親の説得を聞き流したホリエモン

なにか人生の大切な判断に際して、他人の意見をきくということ自体はまちがったことではありません。親の意見を聞いたとしても、意見は意見として聞いてあげればいいのです。

 

「ふーん、あなたはそう思うの。そうかい。いいんじゃないの。私はまったく同意でできないけどね

 

そんなふうに思えるでしょうか?

 

「せっかく東大に入ったんだから、卒業だけはぜったいにしろ。」

 

そんな親の説得を適当に聞き流して、大学をやめ、自らの道を突き進めるでしょうか?

 

そう思えないのだとしたら、その関係はある種の危険がともないます。相手に支配される可能性があるからです。

 

そうです。気づいていませんでしたが、私は親からの支配を抜け切れていなかったのです。

 
ちなみに先ほどの説得をじっさいに聞き流してライブドアを立ちあげたのがホリエモンこと堀江貴文氏です。

 

 じっさいに社会で活躍している人の中には「大学中退」とかいう肩書きの人がけっこういますよね。

 

そういえばフェイスブックの創業者・ザッカーバーグ氏がハーバード大の卒業式でスピーチしたとき、こんなジョークを言ってましたね。

 

「あなたたちは私が成し遂げられなかったことを成し遂げた。――あなたたちは大学を卒業した」

 

(なんか、ちょっとバカにしてる気もしますけど)

 

堀江氏にしてもザッカーバーグ氏にしても、家族や友人の声に耳をかしていたら、日本発の民間ロケットもフェイスブックもなかったでしょう。

 

自分のやりたいことを優先してきた、という意味で彼らは決して「真面目な人間」ということはできません。でも、この2人が人生でうつ病などのたぐいにかかることはまずないでしょう。

 

 

――ごちゃごちゃとお話ししましたが、大切なのは自分を大事にして生きられているかどうかです。

 

ほんの少しのストレスも、じつは体をむしばんでしまいます。そしてストレスというのは自分では“ささいな事”と思っていても、自分で思っている以上に負担になっていたりします。

 

自分の「したい」を後回しにして「しなきゃ」「すべき」「こうあるべき」を優先していくと、心身ともに疲れていってしまいます。

 

そして心とカラダは、分かちがたく結びついています。

 

たとえばある人は体が素直に反応しますから、すぐに頭が痛くなったりめまいがしたりします(私です)。カラダはちゃんとサインを送ってくれるのです。「やめろ」と。

 

それを無視してやっていたら、ある日突然ふとんから起き上がれなくなった、とか会社の玄関の前で足が止まって一歩も前に進めない、とか。そんなふうになるのはなんの不思議もありません。

 

嫌なのに「みんなやっているから」とか、自分の外に基準をおいてがんばるのはやめましょう。

 

嫌なことは「やりたくない」。それでいいのです。それだけで、やらない理由としては十分なのです。じつは。

 

「なんでやらなかったの?」

「イヤだから」

 

これでいいのです。

 

そして、これができるようになると他人に怒らなくて済むようになります。

 

そしてそんな自分を「おお、成長したな」と思えます。

 

なぜそうなるのかは、また改めてお話ししたいと思います

 

さいごに、鴨長明の言葉をご紹介したいと思います

 

鳥は林を願う。鳥にあらざれば鳥の心を知らず」(方丈記より)

 

 (鳥は林が好きだ。林を好み、林で生活しようとする気持ちは人間にはわからない。鳥でなければわからない。)

 

またお会いしましょう。