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西郷隆盛の文明論――「西洋は野蛮ぢや」の理由と、幕末の小さな奇跡

文明とはなにか、という問いに明確に答えた日本人がいます。

 
西郷隆盛です。

こぞって欧米流をとり入れた時代にあって「西洋は野蛮ぢゃ」と言ってゆずりませんでした。

一体なぜでしょうか?


《目次》

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西郷隆盛 /エドアルド・キヨッソーネ, 1877年より前


欧米を「野蛮」と考えた西郷

 

こんな記録が残されています。

 

――あるとき西郷は言いました。

「西洋は野蛮ぢゃ。」

するとある人は言いました。

「いや、西洋は文明ですぞ」

すると西郷は

「いや、いや、野蛮ぢゃ」

と畳みかけるので、ある人は

「なぜそこまで申されるのか」

と、問いました。

すると西郷はこう言いました。

「本当に西洋が文明なのであれば、慈愛を基本としてようく言い聞かせて文化開明に導いてやるのが本来あるべきところの姿だろう。

 

ではなくて、相手が未開の国であればあるほどほどむごくい仕打ちをし、相手の国が知識も低く、道理も十分にわかっていない国であるほど残忍な事をする。

 

そして自分たちは利益を得るのだ。

 

これは野蛮ぢゃ」

 

これを聞いて、相手はなにも反論できなかったということです。(「南洲翁遺訓」十一条)

 

 

西郷隆盛といえばと「征韓論にやぶれて下野した」というイメージがあるのではないでしょうか。そのイメージのままいくと肩すかしを食う感じがするのではないでしょうか。

 

じっさいには西郷が朝鮮への出兵を強硬に主張したという論拠は乏しく、その一方で彼自身が捨て身の覚悟で外交使節として朝鮮との交渉にあたるつもりだったことは確かです。

 

じつは西郷の派遣はほぼ決定事項になっていましたが、反対派によってどたん場の所で中止にされてしまったのです。西郷は派遣先で殺害されることも覚悟しており、その際は朝鮮を攻撃する名目が立つからそのために自分が行く、ということまで言っています。

 

これをもって強硬な征韓論者と見なされたのかもしれませんが、それには強い疑いが残ります。少なくとも朝鮮に対して、欧米列強が行ってきたのと同じように植民地化すればよいというような安易な考えをもっていたわけではないのことは確かです。

 

時代が下って現代の状況を振りかえってみましょう。先進国が途上国に対して資金援助したり技術支援することはあたりまえになっています。

 

日本が途上国の援助を始めたのは戦後、1950年代に入ってからのことです。西郷は100年先の国際関係をも見据えていたのでしょうか?

 

文明国が後発の国に対してまごころをもって支援する――西郷隆盛が生きた時代、残念ながら世界はそのような状態になってはいませんでした。これについては欧米の「列強」と呼ばれた国々が、大航海時代以後にアジアやアフリカでどんなことをしてきたかを考えれば十分でしょう。

 

文明とは、未開の人々に対してまごころをもって接すること。「敬天愛人」の語が示す通り、深い愛情のこころを抱いたからこそ「野蛮ぢや」という言葉を何度も彼に言わせたのかもしれませんね。

 

「文明とは何か?」という問いをどこかに持ち続けていた私にとって、この考え方は腑に落ちるものでした。

簡潔に書かれたものではありますが、当時日本人が考えた文明論として特筆に値するものといえるのではないでしょうか。

 

 西郷の思想を後世に伝えたのは、かつての因縁の相手だった

 ちなみにこの西郷の考えは彼の言葉を記録した『南洲翁遺訓』という資料に書かれたものです。

 

じつはこの資料、西郷自身の手によって書かれたものではありません。彼を慕った庄内藩士、つまりかつて西郷たちと死闘を繰り広げた敵方による聞き書きです。西郷の言葉を写しとったのです。

いったいどういうことなのでしょうか?

 

新徴組と新選組

そもそも庄内藩(現・山形県の一部)と薩摩とは因縁の相手でした。

 

幕末に京都の治安警察として新選組が活動していたことは有名ですが、この新選組と分かれて江戸の取り締まりに当たっていたのが庄内藩が率いた「新徴組」です。

 

この「新組」、もとは「新組」と同じ団体でしたが途中、事情により枝分かれしたものです。

時の幕府はこの寄せ集めの浪士たちを庄内藩の指揮のもとに江戸の警察活動にあたらせたのです。

朱の陣笠をかぶり紋提灯を手にした姿で市中を巡回し、「泣く子も黙る」と歌われるほどおそれられる存在でした。

 
庄内藩、薩摩藩邸を襲撃

幕府との武力衝突を望んでいた西郷隆盛は、江戸にあった薩摩藩の邸(藩邸)を拠点にして幕府側をくり返し挑発します。これに業を煮やした幕府はついに薩摩藩の藩邸への討ち入りもやむなし、と決意をします。*1

 

これを受けて庄内藩を主力とする部隊が討ち入りを断行し、薩摩藩邸は壊滅的な被害を受けました。

 

この事件を発端とし、鳥羽・伏見の戦い、そして戊辰戦争へと事態は発展。東北地方に軍を進めてきた薩摩藩は、ついに因縁の相手・庄内藩と激突します。

 

最後まで善戦していた庄内藩でしたが、味方の諸藩があいついで降伏していく状況を受け、ついに降伏を決断します。

戦後処理にあたったのは薩摩藩参謀・黒田清隆。江戸での因縁もあり、庄内藩の藩士たちはきびしい処断が下されることを覚悟していました。


 
幕末に生まれた小さな奇跡

 

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黒田清隆 / 歴代首相等写真, 1900年より前

 

ところがふたを開けてみると藩主は丁重にもてなされるし責任者の処分もなし。思いもかけない寛大な処置がなされたのです。

 

処分に実際に当たったのは参謀の黒田でしたが、これら判断のすべてが西郷によるものでした。そのことが庄内藩の人々に知れわたると、旧藩主・酒井忠篤(ただずみ)は鹿児島に帰っていた西郷のもとに使者を送り親交を求めます。ここから西郷と庄内藩士らとの熱く深い交流が始まるのです。

  

このような交流の中で、酒井以下家臣らは西郷から聞いた話を「赤い薄布」に書き記して朝夕読んでは肝に銘じていたそうです(『南洲翁遺訓』跋文)。

 

西南戦争から西郷は賊軍の汚名を着ることになりますが、1889年、大日本帝国憲法の発布にともなう大赦が行われ西郷の賊軍指定は解除されることになります。

 

上野恩賜公園にある西郷の銅像もこのときに建てられたものですが、彼を顕彰しようと考えたのは庄内藩士たちも同じでした。先にふれた「赤い薄布」に書いて読んでいたものを編集し、発行したのです。西郷の精神をのちの世に伝えようと考えたのです。こうして編纂されたのが『南洲翁遺訓』です。

 

先に紹介した「文明」についての西郷の言葉も、ここに収められたものです。まさに、庄内藩士たちの努力によって現代の私たちに伝わりました。

 

以下に原文の一部を引用しご紹介します

 

文明とは道の普く行はるゝを贊稱せる言にして、宮室の壯嚴、衣服の美麗、外觀の浮華を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蛮やら些(ち)ともわからぬぞ。予嘗て或人と議論せしこと有り、西洋は野蠻ぢやと云ひしかば、否な文明ぞと争ふ。否な野蠻ぢやと疊みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆゑ、實に文明ならば、未開の國に對しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開曚昧の國に對する程むごく殘忍の事を致し己れを利するは野蠻ぢやと申せしかば、其人口を莟(つぼ)めて言無かりきとて笑はれける。

「遺訓」一一条、岩波文庫『西郷南洲遺訓』より、一部新字体に変更し引用の箇所あり

 

庄内と鹿児島の交流は、いまだに各分野で行われています。絆は現代にまで受け継がれているのです。会津と長州とがその後にたどった関係を考えても、この事はなお不思議の感があります。

 

会津と長州、庄内と薩摩。

 

時代の巡り合わせにより激闘を演じねばならなかった当時の武士たち。迫りくる内外の危機に直面し、否も応もなく時流に呑み込まれていった当時の人々を思うと同情を禁じえません。

 

そんな中で生まれた西郷と庄内藩士たちとの絆は、幕末という時代に生まれた一つの奇跡のようなものと言えるのではないでしょうか。

 

敵味方に分かれて戦った相手とはいえ、同じ武士として尊敬し、また敬愛することをやませないものがあったのでしょう。

 

そして西郷が好んで揮毫した「敬天愛人」の言葉のとおりに、西郷も人を愛したのでしょう。

また幕府というリーダーを失った旧幕臣たちにとって、なによりも「天を敬う」という教えとそれを説く西郷の存在は、変革期の武士たちにとっておおいに心の支えとなったのかもしれませんね。

*1:江戸城に放火した容疑者が薩摩藩邸にかくまわれていると考えた幕府は、容疑者の引き渡し要求に応じない場合は藩邸に討ち入りをかけることもやむなし、という指示を下した。