「忖度(そんたく)の授業」と子どもたち~ぼくらが小学生だったころ~

「忖度(そんたく)の授業」というのがあるという。

 

それも塾や予備校の話ではなく、ふつうの小学校で。

 

「そんな話きいたことない」 という声が聞こえてきそうだ。

 

それもその通りで、小学校の時間割のどこを探しても「忖度」の文字はない

 

ただじっさいに教育に当たっている先生とか、その教育の枠組みを作っている役所の人などに聞けば、「ああ、あれのことかな」と苦笑するかもしれない

 

少々なぞなぞめいた話だが、じつはみんな「忖度の授業」を受けていた。

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◆教室の戸棚からみつけた奇妙な本

「センター試験」が、あと数年で終わるときいてびっくりしたのは私だけだろうか

 

子供のころにオヤジの世代から「共通一次試験」なんて言葉を聞かされてピンと来ず、ずっとあとになって「あぁ、ようするに昔のセンター試験のことか」となんとなくわかった気がした。これが今度は自分が”オヤジ”になって「おれのころはーー」と言う番になるかと思うとヘンな感じだ

 

子どもの頃にはこんなこともあった

 

小学3~4年生ぐらいだろうか。教壇の脇にあった戸棚の引き戸を開けるときれいな装丁がされた見慣れぬ冊子を見つけた。その冊子をみると、なぜだか他の教科書とはちがったヘンな書き方がしてあってどうやら授業のやり方・教え方が書いてあるようだった。私はこれをみて「・・・なぁんだ、先生も答えをみながらおしえているのか」と思った。(ちなみにすぐに勝手にみているのが先生にバレてどやされてしまったけれど・・)

 

この「先生の虎の巻」とも言うべき「学習指導要領」も、まもなく10年ぶりの改訂を迎える。

 

ところでこの新しい「虎の巻」に「忖度(そんたく)」の時間が加わるという話なら面白かったかもしれないけれ。でもそうではなくて、それどころか、もう「実施」されているという話だ

 

 ◆「ソンタクの授業じゃないですか!」

その日わたしは朝のテレビ番組をみていた。

 

そのころ世間では「教科書から坂本龍馬の名前が消えるのらしい?」という心配がでてきたりして、各局がこぞって教育がこれからどうなっていくのだろう、ということを取り上げていた

 

そしてその日もある公共放送で、これからの教育がどうなっていくかということを特集していたのだが、番組の一番さいごにになって番組を見た視聴者からの反響が紹介された

 

その日は全国的にもちょうど冬休み期間ということもあり小学生からのお便りが含まれいた

 

それは次のような内容だった

 

・・・小学5年生です ぼくは道徳の授業がとてもいやです

なぜか。

それは答えが用意されているような気がするから。

それがイヤです

イヤでたまりません

 

アナウンサーがこれを読み上げると、スタジオにいたあるコメンテーターがすかさずつっこんだ。

 

「! まさにソンタクの授業じゃないですか!」

 

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すかさず反応したのは、ハーバード大卒のお笑い芸人・パトリック・ハーラン氏だった。つまりパックンマックンの外人さんの方だ

 

ーー米国人ならではの反応、というべきだろうか

日本人の中で、こうはっきり言える人と言ったら誰だろう

 

「自由の国・アメリカ」というフレーズを思い出す

海外には「忖度」に相当する言葉がなかったため日本で取材する特派員の記者たちは翻訳するのにずいぶんと苦労したという話をきいたことがある 。「忖度」というのは、もとは古い中国だそうだが、その当の中国人でさえ日常的につかう言葉ではないらしい。それだけ「忖度」というのが日本に特有の文化だというようにもみえる

 

しかし、じゃあ外国人がまったく忖度しないかと言えばそれも考えづらい(そもそも忖度のない組織なんていうのがあるだろうか?)逆に言えば、”初めて〈忖度〉を意識したのは日本人”ということもできるかもしれない

 

ところでこの番組を見てしばらくたったある日、今度は別のジャーナリストがこんなことを言っていた。

「道徳が正式に教科になることによって全国の学校で”忖度力”が養成されかねない。まあ、財務省の官僚を養成するにはいいかもしれませんが――。」

こんななかなか皮肉が効いたコメントをしたのは池上彰氏だ。類は友を呼ぶ、というが彼は奇しくもパックンの仕事仲間でもあるという。

 

 ◆「ソンタクの授業」と”優等生”

「道徳」が正式に「教科」になったということでいろいろと議論が起きている

 

子どものころ時間割には5時間目あたりにちゃんと「道徳」とあったから音楽や図工と同じく教科の一つだと思っていた。でも、「道徳はいままで正式の教科でありませんでした」と初めて聞かされて逆に驚いた人も多かったことだろう。

 

そういえば昔よく「道徳」の授業はすっとばされていたっけ。授業進度が少し遅れるとすぐに道徳の時間が算数とか数学になって、「えーっ」というブーイングが起こっていた記憶がある。

 

わたしはさっきの”小学5年生”と同じく道徳の授業では最後になんとなく「答え」が用意されているようで違和感を感じてはいたが、道徳じたいは大好きだった。なんとなくなにかに包まれている感じもした。

 

さらにふしぎなことに、道徳だけ得意なヤツとかもいた。ほかの教科ではとくに目立った成績をあげるわけではないのだが、道徳の時間だけは並みいる優等生がおし黙っているのを尻目に決然と手を挙げ、かなりいい答えをする。みんな感心して「おーっ」と声があがる。 それをみて私は(・・敗けた)という敗北感とか悔しさはあったけれど、ふしぎと嫌味は感じなかった。忖度の結果として出た答えというよりは、ただ本当にそう思ったから答えた、という印象だった。

 

彼は私と幼なじみで、私の結婚式にも出席した関係だが、どちらかというと忖度するのが好きなタイプではなかった。しかし、じつは忖度するセンスは抜群だったのかもしれない。

 

彼はガス屋に就職して、今も重いプロパンガスを家庭に届けている(さわやかなところがあるいい男だが、いまだに結婚式の招待状が届かないことだけがもどかしい)。

 

通知表を見る男の子のイラスト(ショック)

 

そう考えてみると、じつは「道徳」の授業で忖度するというのはそれほど簡単なことではないかもしれない。ふだんあれだけ勉強が得意なやつらが肝心なところでこたえられなくなってしまう。そこでふだんまったく目立たない子がふと出した答えがスマッシュヒットだったりする。きっと彼らは、たとえその日一日だけでも誇らしい気持ちになっただろう。そして一生そのことを覚えているかもしれない

 

いままではそんなチャンスがいとも簡単に失われてきた。

 

そう考えてみれば、お上の方から「道徳はちゃんとした教科だ。流さないでしっかりやれよ!」と圧力がかかったとしても、結果としてはいいかもしれない。

 

 

もちろんいろいろと気になることはある。1学期の終わりに通信簿をひらいて成績評価をみたときは、みんな少しはドキドキしたのではないだろうか。「道徳」の成績評価を見た経験はないけれど、いったいどんな気分がするものなのだろう。そして、どんなことが書かれているのだろうか。

 

「道徳」が「教科」になってから初めての通信簿が、今年から家庭に渡る。国語や算数の評価とならんで「道徳」の成績評価も始まることになるが、これには困惑の声や異論を耳にすることも多い。

 

はじめての「評価」をどうすべきか、先生方も苦労されることだろう。

 

でもこれからの子どもたちは5時間目の道徳の時間が国語や数学に変えられなくなるのならうらやましいなあというふうには思う。

 

そんな子供だったのは、私だけだろうか。

 教えるのが下手な先生のイラスト(女性・小学校)

 

 

〈道徳の教科化〉

 これまで小学校には教科外活動として「道徳の時間」があったが、2018年度から教科化された。これにともなって「道徳」の成績評価が始まる。評価のしかたをめぐってさまざまな議論があったが、最終的にはABC評価のような順位や序列をつけるやり方ではなく、記述式で行うことになった。ただし本来、多様であるはずの個人の生き方や考え方、価値観に対して評価を与えるということについては異論もある。

 年間35コマの授業が義務化され、もちいる教科書はほかの教科と同じように文部科学省の検定を受けなければならない。

 教える内容は「善悪の判断」「誠実」「思いやり」「国や郷土を」愛しているかなど。

 今年(2018年度)から小学校で教科になり、来年からは中学校でも教科としての道徳が始まる。

 

 

時論・随想

Posted by metalLeopard